ダバダバ生きていく

新聞をとらなくなってから一年が経った。

昨今、囁かれている活字離れの象徴でもある新聞をとらなくなる現象。原因は簡単だ。今や無数あるネットニュースに新聞以上の詳細記事が書かれている。お金を払えばオンラインといってはもっと細かく。一年前、それが最後の配達だっただろうか。辞めないでくれと拒んでビールやら洗剤やらを代償にしてきたことがあった。

結果的にその代償をもらうだけになったミスセールスも彼の胸中を思えば酷いことをしたのかもしれない。ただ、必要のないものは必要がない。そして必要のあるものを出されたら必要があるからもらう。理屈は間違っていない。でも一年経った今も彼の表情や仕草を忘れられないのは何故だろう。もらったものは使い切ったし、ネットニュースにも慣れた。新聞を取ってた時よりも時事に詳しいとすら感じるほどに。

では何故。それは新聞のにおいにあった。あの独特なにおいは一年で一度も嗅ぐ機会がなかったのに憶えている。スマホ、パソコンからにおいはしない。味もしない。ただ、新聞にはにおいがある。食べたことはないけど味もある。そして、何よりそっちの方が味である。この味は人間味という味だ。だからといって新聞に戻そうなんて思わない。不便だし。ゴミになるし。ロボットに侵食される時代がそう遠くはない現代にひっそりと姿を現したネットニュースの脅威に新聞、いや人間はなすすべなく衰退を余儀なくされたのだ。このようなことがこれからどんどんと生まれてくる。運転をしなくなる時代も来る。そして、星新一が描いたような世界が実在するようになっても我々は生きていくしかない。打開策も見つけられずにダバダバと。

そう。ダバダバと。