ブローティガン

整えた前髪が風に煽られて乱れてもなお並木道を自転車で下る気分は心地がいい。遊歩道には学校帰りの小学生たちが談笑している。買い物帰りの奥様方による井戸端会議もこの町の景色に溶け込んでいる。

「あ、弁当屋のお兄さん」

と声を掛けられ足を止めると、見たことはあるが名前が思い出せない現象に陥りそうな顔をしている落合さんと出会った。

「この前はありがとうございました。ところでお名前、何でしたっけ」

と、失礼のないようにお聞きすると

「ホ・リ・グ・チ」

と片言で言っていたのでこの人は堀口じゃない。堀口は別にいる。と刑事の勘が働いた。

刑事は刑事でも田中刑事の方だが。

堀口じゃない誰かは、ではまたと言い立ち去ってしまった。何だあの人は。素敵な人だなあ。でもこんなところで惚れてる場合じゃないので、勤め先の弁当屋に向かった。

自転車を停めている間にいろんなことを考えた。今までの人生は家族なしではあり得なかったこと、少なくなってきた綿棒は横に倒れてしまって取りにくいこと、恩師の身に染みる言葉の数々、森永卓郎のミニカー博物館、RIZAPで減量に成功した人々、RIZAPは森永卓郎から飛躍して思いついたことなどなど。

鍵を閉めて、店の裏口から入るとゴミ箱と店長が仰向けで倒れていた。ゴミ箱を直して、店長の安否を確認しようとするとそれはゴミ箱だった。先程直したゴミ箱をみると、可燃ゴミと空きビン、カン入れの間にすっぽりと収まる店長がこちらを向いていた。

「あ、おはようございます」

「おお、おはよう。それにしても広島はなんで急に弱くなっちゃったかねー」

「守備が不安定ですよね」

「そうなんだよ。三連覇したことで怠慢がみられるよなー」

店長は、腕をゴミ箱に掛けてプロ野球の話を延々としている。途中、ゴミ箱に話しかけているような仕草を見せた時は思わず笑いそうになったが、ゴミが散乱していることによる咳き込みに装い一難を凌いだ。

この状況で動じない店長の鉄の心臓は元中日の名リリーバー岩瀬のようだった。

お客さんがみえたので注文に駆けつけた。海苔弁のサインを店長に送ると、首を振ってきた。なるほど。ここは、一旦外角にはずして客の様子を伺うわけか。

海苔弁が売り切れのことをお客に伝えると、チキン南蛮弁当、つまりチェンジアップに変えてきた。しかし、店長は頑なに首を振る。それもそうだ。一球目から抜いた球を投げる奴が何処にいる。チェンジアップは売り切れだと伝えると、本日のメニュー表とにらめっこした先発は唐揚げ弁当に手を出した。あ、それは普通に売り切れだって。投手交代。こんな事をやっているから創業18年目を迎える来月でこの店は幕を閉じることになる。無理はない。後悔もない。店長に従っていてよかったとさえ思っている。2つのゴミ箱に挟まれた店長は、さながらバッターボックスの間でボールを配球するキャッチャーの様だった。僕の伝達役もそろそろおさらばだ。

ああ、甲子園で弁当作りたかったなぁ。

よくできたマネージャーみたいなことを思いながら帰路に着く。さて、来月から一体何をしたらいいのか。舞台役者の夢も捨ててはいないが、ポケットに入れたまま洗濯してしまったような状態だ。ただ、この夢は紙切れじゃない。もちろんキラキラ光る宝石でもない。そこらにある石ころだ。でも、石ころは洗濯しても割れない。むしろ綺麗になる。灰色の中に艶が生まれる。そうだ、僕はまだ諦めていなかった。だから大事なものを入れるポケットに入っていたんじゃないか。これは、祖母から2つ教えてもらっていた金言のうちの1つだ。そしてもう一つが今、目の前に広がる家路までの近道だ。ただ、この近道を今は使わない。というより使えない。工事中になっているからだ。だから、遠回りして帰る。なんで工事してんだよー。かったりー。ああー。まじかったりー。

ということで、色々オーディションやらあって僕は舞台フィギュアスケート物語に出演することになった。スポーツネタ多いな。

この流れで、田中刑事回収しようと思ってこの舞台にしたけど、飽きたんで辞めます。

ホンモノの堀口さんと帰りに出会った。

ホンモノの堀口さんは全く魅力的じゃなかった。偽物の堀口さんの方がいい男だった。

髭が似合っていた。セットアップがキマっていた。英語が達者だった。口説き上手だった。堀が深かった。顔が小さかった。細身で手足が長かった。意外にも倹約家だった。家族想いだった。プーさんが好きだった。ファンが多かった。ソチと平昌で金メダルを獲ってた。

ということで、フィギュアスケート物語に逆戻りになった。ただ、田中刑事役の僕に出番などない。自己最高を出したところですぐ首位の席を明け渡すんだ。最終グループの一個前あたりの7時台で登場するんだ。前座でしかないから。僕は前座でしかないんだ。

ということで、僕は田中刑事始め田中刑事のファン及び関係者の方々に怒られることになった。