くらい

 少年を街で見かける度に心の底でがんばれ!と応援するようなダメな大人にはなりたくなかった。スーツ姿を映した鏡に向かって下手な笑い顔を作るが、思った通りの人間は目の前にいない。初めて2人が重なったのは、うなだれ途方に暮れる自分だった。ポケットに何気なく手を入れた時、携帯電話が鳴っていたことにようやく気づいた。鏡から離れ、電話に出ると相手は隆子だ。急な用事が入り今晩のご飯は作れないから食べてきてほしいという内容だった。いつも作って貰って悪いねと言ってもいつも通り、愛を伝えることなく会話を終えた。帰りは通学路を通らないよう遠回りして精肉店でハツを120g買っていった。近所の犬が近寄ってくる。飼い主はいなく、犬のみが寄ってくる。のんびり歩くそれとは対照的に走る緊張を久方振りに感じたことにハリのない生活が表れている。世間一般から見たら僕はニートにあたるのだろうか。「だろうか」じゃない、「だ」だろう。変革を待ちわびて、これこそ分岐点だと決定づけるような出来事も少なからずあった。それも表情変えずに素通りした僕がいるから今の僕は笑っていないのだ。

 ブルーな文章を読んで同情したり、憐れんだり、拒んだり、人はそれぞれだ。

「人はそれぞれ」

私たちは生まれてから死ぬまでにこの言葉を幾度となく聞くのだろう。その度に心に響くのだろう。その言葉に納得して、次に進むのだろう。ただそれは、その事象を避けているようにもみえる。これは、よくいう紙一重じゃない。避けていると捉える人もいれば、前を向くための言葉として捉える人もいるということだ。

つまり、人それぞれだ。

ブルーな物語が好きな人もいる。

僕は好きな方だけど、気分が暗くなるから見たくないという人も少なくない。

好きな人と受けつけない人の違いは何だろうか。人それぞれで済まさずに向き合おう。

「くらい」と読む漢字は沢山ある。

暗い。昏い。黯い。溟い。闇い。

予測変換で出たのだけでもこれだけある。みな、状況によって意味は異なるが、総じて⤵️の意味で用いられる。どうして、こんなに似たような意味で同じ読み方の漢字を作ったのか。

おそらく「くらい」は奥深い言葉であるゆえにこの様なことになったのだろう。つまり、簡単な「暗い」だけでは「くらい」は表しきれない。他にもああいう「くらさ」やこういう「くらさ」もある。そうして、今の「くらい」の多様化につながった。自然や人間において使われるそれはグラデーションによって分類されるのだ。僕は、「くらい」とよく似た意味を知っている。それが、「青、ブルー」だ。「青」が色の中で特別なのは数々の偉人も主張している。

空や海が青いことの奥深さは「くらい」に通ずるところがある。意味が似ているのはもはや偶然とは言えないだろう。

さて、「くらい」の対義語は何かと言われたら間違いなく「あかるい」と誰しも答えるだろう。明るい。予測変換はこれしか出てこなかった。つまり、明るさには分け目がなく、どれもが同程度に明るいということが判る。

ちなみに「青」の反対は何だろうか。赤?

いや、違う。光の三原色とかよく知らないけど絶対違う。

ならもし、くらい=青と考えた時、「くらい」の対義語が「あかるい」ということすら怪しくなってくる。

要するに、「くらい」はそれほどまでに広義な言葉であるのだ。国語研究すれば更に真相にたどり着けるのだろうが、あいにく時間もないし、誰かがもうとっくに明言していることかもしれないし、家庭もないし、カーテンもないし、何より憶測が最も楽しいことを知っているので半端に調べていません。

 話を戻す。僕がくらい話を好きなのはそうした奥深さゆえであり、では明るい話、ハッピーエンドが嫌いかといえばそういうわけでもない。ただ、明るい話に奥深さを感じないだけだ。現実でハッピーエンドを願っているせいか、物語の中では現実を見ていたい。物語なんだから虚構なんだからと言う人もいる。それでも明るい話にそそられないのは、くらい現実の中で僕がなんとか明るい方向を見ているから、せめて物語ではくらい現実を映してほしいと願っているからだ。それに直面してしまうと、あまりにも恐いこと、明るい方向が遮られてしまうことにより現実の行く先までくらくなってしまう様な気がしてならない。なので、間接的に舞台や小説、映画、ドラマでくらくかなしい現実を見る。知る。それでいい気がする。

なので、多くのくらい物語が好きだ。なにせ、くらいは幾らでも落ちているから。それを拾って、新しいくらいを見つけて、前に進めばいい。自分の人生からくらいを作る必要はない。

よくよく考えれば、くらいは別にあってもなくても変わらない。今のところ僕も使い方はあまり分かっていない。

但し、自分がモノを作るときは間違いなく「くらさ」を混ぜるだろう。もしかしたらその時に今まで知ったくらさが役に立つのかもしれない。

これだけ、くらいと言っておいてなんてくらい人なんだろうと思われるかもしれないが、僕は自分自身を明るいと思う。愚痴も思っていないから出てこない。むしろ、明るいと思っていた人がそんな現実を憂う時、嘆く時、世界は反転しているとさえ考える。これは青いオセロなのかもしれない。裏が何色なのかはまだ誰も知らない。