青年

なんとなくブログを再開する。

甘い香りはどこからか季節の風に乗せて隣町へ。雑踏の中、藍眼の歌うたいは息を殺していた。煙がのぼる高架下が彼の住処だった。太陽が3日ぶりに姿を現した朝、重い腰をあげて西へと向かった。病院の駐車場を使ってショートカットすると、耳を割くようなクラクションが右から聞こえた。振り向くと、何の変哲もないいつもの交差点だった。これまでも幻聴が聞こえることはよくあったので、なんて事ないいつもの日常だと考えていた。

彼女は優しさを理由に別れを告げた。その理解に幾度も苦しんできた。愛おしさは時に憎らしさに変わることさえあった。それでも未だに彼はその理由について考えている。出会いは映画館だった。L列の1番に座り上映開始した半ば、彼の肩を叩いた人物こそ今を悩ませる彼女だった。

「少しだけ頭下げてもらっていいですか?」

いつもはクールな彼もその日は腹に虫が住みついていた。

「あのね」

言いかけた途端、銀幕のスター、三船敏郎がスクリーンの中で「実るほど頭を垂れる稲穂かな…」と、呟いた。虫は稲穂の中へ潜っていった。終映後、M列1番の女性は声をかけてきた。簡単な謝りと彼の首の長さへの驚嘆だった。

お互いに予定がなかったため、飲みに行くことにした。ビールで乾杯したその日から交際が始まった。それからの日々はまるで黄金の麦畑のようだった。彼は、幸せのせいか肥えていった。同僚からはプリン体と呼ばれていた。そんなある日に告げられた雷だった。帯電したまま今日に至っている。眠れない日が何日も続いたこともあった。職場のドアにもたれかけたまま寝てしまったことすらあった。その姿は、首の長さも含めさながらキリンのようだった。

クレーンがビルを建設していく。工事中だったけれど、道があったので身体を細くして通る。「おいっ」と声がしておやっさんか警備員に謝るつもりで振り向くが、誰も彼も見向きもしていなかった。長い首を傾げて、信号を待った。

普段は薄化粧だった彼女が真紅の口紅をつけてきたことが一度だけあった。忘れもしないジーコジャパンW杯メンバー発表の日だった。ナカムーラ、エンドゥ、ヤナギサーワ、タマーダ、メゲに沸いたあの日彼女は気合を入れていた。何に対してかは分からない。聞いたけどはぐらかされた気がする。ただ、メゲの瞬間の彼女の横顔は鮮明に覚えている。ポッカリと口を開けた鯉のようだった。そのくちびるを塞ぎたくなってカワグチの如くゴールマウスを守ってみせた。サムライブルーは散々な結果だったけれど今があるのはあそこから歩み始めたことで得た勲章だ。

青になったのを忘れていた彼は点滅し始めた信号に向かって走り出した。渡り切っても一向に赤にならないのを見て、走らなくてよかったじゃないかとため息をついた。一緒に渡ったはずの足の悪い老婆はそういえばどうしたのかと三度振り向くが、遮った車で見えなかった。

どうしてだろう。過ぎたら見えない。

どうしてなんだろう。振り向くといない。

どうしてこんなに何かを失った感覚を拭えないのだろう。今、自分にあるものよりも喪失したものを数えているのだろう。

そうか。振り向くことが、優しさだったのかもしれない。彼は、愛ゆえに振り向いた気になっていたが、それは弱い優しさだったのかもしれない。沈む太陽とは逆に向かう。辺りは暗くなってきた。振り返らない。振り返らない。たとえ、それがこの世で最も明るいものだとしても。そう彼は心に誓っていた。

ロンドンは16時を回る。