病院

ベッドの先には大きなガラス窓が付いていた。対照的に痩せ細った身体が痛々しさと哀れみの念を抱かせる。会っていなかったものの自分のルーツになる人物の姿を涙を堪えながらただ見つめていた。話す言葉が聞こえる時もあれば、その逆もある。ただ、身体の衰弱に比べた時の口の達者ぶりには安堵した。重度の末期ガンに侵された身体に闘い続ける細胞と蝕み続けるガン細胞。決して見えはしないが、その事実が目の前で行われていることははっきりとわかった。面会らしい面会を始めてしたものだからわからないことも多い。ただ話を聞いているだけで当方は嬉しそうに笑う。その愛らしい姿に感極まりそうになるが、堪えた。感情的になることが少ない自分にとってこういう場面での自分の言動は未知なので恐怖もある反面、関心もある。

冷静を装って見つめるだけで終わった今回の件も立場が変われば感情も大きく揺らぐだろう。耐えられず、逃避してしまう可能性だってある。だからこそ今回の経験は今後への糧となるはずだ。そして思った。

衰弱した当人の眼差しはとても余命少ない人とは思えず、強い生気を感じた。亡くなる直前に仙人のように全体を俯瞰してみることができるというのは本当にそうなのだろうか。

そんなことを考えて見つめている目線を少しあげると誰よりも死んだ目をした自分が映った。

春の空気に虹をかけ

雨が降っていたはずの千鳥ヶ淵は2時間後に止んでいたのは奇跡と呼ばずして何と呼ぼうか。

アルペジオ』の台詞を並べ立てた瞬間、背後からは笑い声が聞こえた。その笑いに、どうやら自分だけではないという安心感とこれから絶対面白くなるという確信を抱いた120分間の始まりだった。暗闇が続く武道館に差した光の先に現れた人物は間違いなくあの小沢健二だった。目の悪い自分には表情を認識することはできないが、輪郭を捉えることくらいはできる。vo満島ひかり!と紹介された隣の女性はどうやらあの満島ひかりらしい。顔が小さ過ぎて判断できない人は大勢いたと思う。『シナモン(都市と家庭)』で最近の小沢健二を紹介したと思えば、『ラブリー』のフレーズを口ずさみ始める。会場の温度が急に上昇したのを肌で感じた。動いていないのに汗をかいてしまっていたから、体内からくるものもあったと思うが。初めて、オザケンを映像で観たときと初めて、オザケンのLIVEを観た感想は全く同じだった。それがとても嬉しかった。分厚く濃度の高いリアルな幸福感と何より歌詞を大切にする歌手。

印象的だったのはLIVEでありがちな「ありがとう」という言葉を多用しなかったこと。彼が慈悲深い人間というのは周知の事実で、その時間があるなら歌を届けたいというメッセージだと受け取った。その証拠に怒涛のヒット曲メドレーがこの後続く。個人的に好きな『戦場のボーイズライフ』を歌ってくれた時に思わず声が出た。あ、やっぱりこの人のファンだったんだと改めて気付かされる。同世代に小沢健二を好きな人は居ないどころか知ってる人も数少ない。昔の人という認識で、世の中は日々新しい方へ進む。懐古主義があるわけではなく、今で言う星野源のようなポップスターが20年以上前に存在したとなるとチェックしないと気が済まない。ただそういう性分なだけだ。復活した時は声が出てない、劣化などと言われ、同意見を自分も抱いた。もともと歌唱力があるタイプの歌手ではないので、まぁ見るべきは違うところだからというくらいで今回、南東のL列40番に座った。しかし、それは見事に覆される。『戦場のボーイズライフ』をカラオケで歌った人はわかるかもしれないが、ラッキースターーーーーーーーーーーーーーーーーーが異様にキツい。いつだってSOULは!の気持ちいいとこの前ではもうスタミナが残っていない。実は、そのラッキースターーーーーーーーーーーーーーーをオザケンはしなかった。ラの字も発さず、満島ひかりバトンパスした。ちなみに満島ひかりは、乾くはずさーーーーーーーーーーーーをキメていた。正直、ガッカリした。あぁやっぱり本家でもキツいのか。メドレー形式で『愛し愛されて生きるのさ』、『東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー』に移行した。脱力感を感じていると聞いたことあるリズムが蘇ってくる。あれ、これさっき聞いたな。既視感ならぬ既聴感を感じると、それは先程の『愛し愛されて生きるのさ』だった。となると、期待してしまうのが必然で、その期待に簡単に応えるのがスターだ。一度ガッカリさせておいて実は、のパターン。この世でもっともアガるやつだ。僕を抱いたーーーーーーーーーーーーーーの方だった。ハイトーンは健在だった。ピンピンしていた。そこから、我が先輩筒美京平との合作で知られる『強い気持ち・強い愛』。一番武道館が熱くなったのはこの辺りだと思う。なぜ、そんなに曖昧かというと実は『いちょう並木のセレナーデ』くらいからずっとふわふわしていたのだ。サッカー選手がアドレナリンが出まくって、スーパーゴールのことをあまり覚えてないやつ、といったら大袈裟だがこの上ない浮遊感に包まれていた。表情はとんでもなく気持ち悪い笑顔だったのだろう。でも、それを否定しない世界が極上の幸福なのだと今だから判る。『ある光』から『流動体について』で第一幕が終わる。LET'S GET ON THE BOARD。

ここで我に帰り、待ってたアンコールは、『流星ビバップ』。帰宅直後すぐに世界に飛び込んだ。感覚で言えばまるで水中の様だった。実をいうと自分はこの曲で初めて立ち上がった。周りが、特に前方が立たなかったので今まで立つことは無かった。遮るものがない限り、着席していたい山下達郎LIVEスタイルが染みついているせいだ。しかし、この『流星ビバップ』で立ったのは遮るものが生まれたからではない。自然と立ってしまったのだ。それも前方の方と同時に。通じ合った心を確信に替えたのは春にして君を想うで同時に着席したからだ。後ろからみると、双子にみえただろう。年齢も性別も大きく異なるが。

今回、このLIVEに来たいと思った大きな理由があった。【ドアをノックするのは誰だ?AT BUDOKAN】この映像を中学生の時に初めてみてからというものこの日まで、この空間を共有するのが僅かな夢のひとつだったからだ。叶った。アンコール3曲目で叶った。叶うと喜ぶのは夢ではない。茫然としてしまうのが夢なのだと思う。それだけ深い海底に居たのだと正常に呼吸をしている今ならいえる。

36人編成ファンク交響楽。そう謳い、このツアーは始まった。36名全員を満島ひかりが紹介する。この人たちを忘れたくない。学生時代のクラスメイトを忘れたとしても。と思い、オッオーオーで途中から名前はあまり聞こえなかった。あとで調べりゃいい。最初、『アルペジオ』で始まったこのLIVEは最後、『アルペジオ』で終わった。日比谷公園の噴水が春の空気に虹をかけ。日比谷公園は実はよく行く身近な場所だ。下北沢珉亭ご飯が炊かれ、麺が茹でられる永遠。珉亭、この前行ったばっかだ。不思議と自分と繋がるストーリー。いや、そんなことない。自意識過剰が過剰していた。駒場図書館行ったことないし。小沢健二は最後にこちらに問いかけた。今日、初めて来た人いますか?挙げたところで当てられるわけでもないのに、挙げられなかった。また、自分に繋がった!と思ったからである。いや、そんなことはない。自意識過剰が超過していた。めっちゃ挙げてる人いて少し悲鳴聞こえたし。またお越しくださいと言われた。いや行くっしょ。聴きたい曲まだまだあるし。ほら、『さよならなんて云えないよ』とか『痛快ウキウキ通り』、『夢が夢なら』、『天使たちのシーン』etc…

今回のLIVEで話題になったのは満島ひかりだろう。そりゃ言及しなきゃおかしいくらい彼女は目立っていた。多分だけど、台本は殆ど無かったんじゃないかと思わせられた。それくらい自由度が高く、表現力が尋常では無かった。蛍光のボクシングのリング作っちゃうし、カッコよくギター弾いちゃうし。特に『フクロウの声が聞こえる』ではスティックで照明を総演出していた。(何も叩かないと暗闇だが、叩くと様々な光が生まれる。)もともと悪かった目を更に悪くさせられた気がするが、満更でもない。終盤にかけて最高潮を迎えるこの歌を理解している演出だった。開場が素の明るさになるやつを満島さんは特に気に入っていたようにみえた。共感は不要。

だからこそ表情も見てみたかった。もしも、LIVE DVDが発売されるのなら。

声質的に厳しい歌もあったのは感じたが、それでも最後まで歌い切った。最後の『アルペジオ』でその日イチの太い声(オザケンも含めて)を出したのは鳥肌が立った。小沢健二のLIVEというより2人のLIVEになっていた。それは皆、同意見だと思う。36人のLIVEだよという揚げ足取りは無視しといて。ゲスト満島ひかりという認識が特にLIVEに行っていない人は感じられるかもしれないが、実際に行った自分が声を大にして言いたい。間違いなく彼女はゲストではなくホストだった。違う、女性だからホステスだ。それだけの観客に対する熱量を持っていた。ホントに凄いわこの人は。あっぱれという言葉が一番似合う。大好きな俳優のひとり。

どうやら翌日、本人を前にしてオザケン世代じゃないと言っちゃう一幕があったみたいだし。

最後に、小沢健二は観客に対し、日常に帰ろうとカウントダウンを取り公演を締めた。

2018年の春に、こんな非日常を目の当たりにしたということをひきずりながら家路につく大勢の観客の夜空には鮮やかな虹がかかっていた。

JIMYBUKAY

この世界に入って早五年、待ちに待った地上波デビューの仕事は食レポだった。

午前十時に町屋駅に集合し、打ち合わせを済ませ、いざ闘いの舞台である牛丼屋の前に辿り着いた。ここまでの道のりは決して簡単なものではなかったが茨というのもおこがましいので、なんといおうか、ふわふわした道だった。子供が遊ぶ歩きにくいやつ。もしくは、爺が遊ぶ足ツボマッサージのようなごつごつした道だった。その2つが混在していて、まるでGWの風景のようだった。ただ、帰りは渋滞が酷く、とても過酷な道のりだった。つまり、そのくらいだった。店内に入ると元気な青年が「らっしゃいませ」と元気よく「い」を抜く。席は空いていたので好きなところに座ろうとした瞬間にハッと気づく。カメラを意識したポジションに座らねばと。照明や店内の騒音も加味したうえでここしかないベストポジションに着席した。

一つ分外した。内角を攻めすぎてバッターつまり店員の腰を引かしてしまった。カメラマンの顔を伺うことも出来ないくらいの張り詰めた空気に渾身の牛丼トークを炸裂させた。

一つ飛ばした。オチにいくための大事なフリを飛ばし、キャッチャーつまり取れ高が遠のいた。ボール2。

昨夜から熟考してきた味の感想も、在り来たりで陳腐なものだと後でスタジオに来ていた大御所が漏らしていたと聞いた。ボール3。山手線ゲームを一人でした後、トイレに向かった。

ここまで手応えは正直かなりあった。ここから世田谷区に住んでポルシェに乗る華々しい芸能生活が始まると思うと、鳥肌が立ってくる。我ながら天晴れだ、とトイレのドアを勢いよく開ける。煙草を吸いに吸いまくったスタッフ達に始めようかと手を二度叩く。疲れてしまったのだろう、この食レポ界のベッカムに。サッカー界の彦摩呂に。

キャッチーな言葉は国民の認識に相関関係がある。まいうーと言えばあの真顔がガチで殺し屋の石塚が誰もが思いつくだろう。言葉で人は人を覚えるのだ。なら私こと小林タクシーも同様に世間に定着する言葉を考えた。

それが、

JIMYBUKAY‼︎‼︎‼︎

フォアボール。押し出しでサヨナラ負けを喫した。マウンドに立ち尽くす俺にする仕事はもうないようだ。

 

ザセツ

これは間違いなく挫折だ。

今まで感じてきた人より進んでる感覚はあっという間に逆転した。不動の壁に直面し、考えを巡らすが打開策は見つからない。例えば、この壁が自分めがけて迫ってきていた場合、考えるまでもなく飛び越える一心に到達するが、そんな物理は三次元では存在しない。つまり、この壁は自分から踏み出さない限り、越えることは出来ないのである。

認識していても行動できないのは人間の常で、ここにこうして記しているのも何かが生まれるのではないかという淡い期待を抱いているからである。しかし、そんなに言葉は万能ではない。御託が誰の目から見ても御託として並んでいる。打った文字を一列目から読んでも全く面白くないし、誤字脱字もない。真新しい展開もないし、テクニックも経験もない。力強さや繊細さもありゃしない。

ネガティヴになった自分にブをヴにしたことを笑う街に佇むルイヴィトンの旗艦店は心なしか少し小さく見えた。相田みつをがお金が大事だよ〜的な文章を遺していたのを見たときの印象は、なに言ってんのこの人?と思ったが、今なら言えることもある。当たり前だろなにこいつ?は?字下手じゃね?なに「を」って?は?

「お」を「を」にしたことを恥じらうみつをに対し、眞鍋かをりは心なしか少しエロく見えた。

 

『だいしょう』

鶴になる。

大きな鶴になり、小さな鶴に優しくする。

バケツになる。

大きなバケツになり、小さなバケツを中に入れて運びやすいようにする。 

カンガルーになる。

大きなカンガルーになり、小さなカンガルーを中に入れて運びやすいようにする。

森永卓郎になる。

大きな森永卓郎になり、小さな森永卓郎を中に入れて運びやすいようにする。 

森永卓郎の母になる。

大きな森永卓郎の母になり、小さな森永卓郎に優しくする。

人になる。

大きな人になり、小さな人を馬鹿にする。

国になる。

大きな国になり、小さな国を侵食する。

明日になる。

大きな明日になり、小さな明日を忘れる。

家④

出たな魑魅魍魎マン。5歳になる甥っ子は一人でブラウン管を見ながら格闘している。晴天だから外へ出ようと声を掛けても、たばこを買うためだということがバレているのか、見向きもしてくれない。可愛げはないが、魅力はある。魑魅魍魎マンの魅である。たまに描く絵をチラッと覗いた時に只者ではないことを感じた。VにLを合体させたお馴染みのルイヴィトンのロゴを二つ半描いていたからである。勿論、そんな高級店なんて行くような家柄も経験もなく、ニュースや保育園といった外部の影響を受けることはある一度以外なかったと姉にも聞いている。そこで訊ねれば解決したものを小林タクシーこと私は二つ半の衝撃に開いた口を塞げずにいた。例えば、THやCDなら分かる。阪神、中日描きたくなるよねーと声を大にして言える。しかし、ヴィトン。それも二つ半。半は、見事に半。ルイヴィトン50%オフ。セール中の商品は売れ残りだからあまり買うのはオススメしないよと保育園の先生に言われたと言っていたのをそういや思い出した。

結果、先生は大のユニクロ女で杞憂に終わった詮索も彼の偉大さを象徴させる要因になった。

この一帯は売れ残りが多いらしく、マンションよりも一軒家の方が安く買えると姉が今朝言っていたのがさっきの事項と繋がりそうだったが、スルッと交わされ海底へと消えていった。

商売にヤクザが絡むこの町の不動産は現代の風潮に逆らっていることもしばしばあった。マンションが一軒家に占拠されて衰退を余儀なくされてしまうのも背景にヤクザがいるからである。このまま蹂躙されてしまうやも知れないマンション経営者に正着の行方は分からなかった。ということで、魑魅魍魎マンのマンである。

甥っ子には実は血の繋がらない18つ上の姉がいて、ついこの前、彼女はダイヤモンドバックスのセットアッパーから芦屋の女ボートレーサーに転じたらしい。つくづく親のとんでもない強烈な血に驚かされる。血魅魍魎マンの血である。実際、85歳にしてまだバリバリ免許更新を行なっているし、血糖値も正常で血管年齢も30代らしい。フィジカルの面でもシワは見当たらなければ、爪もピカピカ。そして何よりそのロングヘアーの髪である。艶がありすぎて艶落としをネットで購入したというくらいだ。ネットも使えてるし。毛量の多さは子供にも伝わり、一度、ほうきが無い時に代用したとかいうのはまた違うお話し。血魅毛量マンの毛量である。

 甥っ子がテレビで格闘していたのがジミー・モー・リョーマンというハリウッド俳優であったことに気づいたのは、アカデミー賞で甥っ子が作品賞を獲得した時であるがこれもまた後のお話し。

 

タイアップ

転校生の紹介とホームルームは僅か数分で終了した。録音していたビートたけしオールナイトニッポンを聴くためにダッシュで下校中、曲がり角で何かに衝突した。正体はどうやら人間のようで、しばらくしてそれは最新の記憶の中にある人物であることが判明した。

「さ、さっきの転校生!?」

漫画で見たような設定と思ったのは束の間、その空想はすぐさま崩壊した。なぜなら向こうはこちらを理解していないからだ。

「さ、さっきの在校生!?」

となるはずもない三十分の一はただの加害者として認識された。登校でぶつかれば運命でも、下校でぶつかれば事故なのだということをこれから先使う予定のない教訓ボックスに投げ捨てた。

たけしはやさしかった。

オイラなんかと切り出せばすぐさま笑いへと昇華させた。ただ滑舌が悪くてなんて言ってるかわからなかった。スタッフが笑っていたので面白いことを言っていたのだと思いたい。

ただ、協賛の企業はハッキリと発音していた。1文字1文字の間に0コンマ何秒かかけていたので、それだけで1コーナー潰れるほどだった。新人スタッフが収録に参加した時、それをボケと勘違いし、ハハッと笑ってしまったが誰も聞いていなかったふりをした。聴くことしか出来ないリスナーさえも。

タイアップにそこまでの尊敬と感謝を抱いているたけしの信条が生まれた経緯に関心を持った一ハガキ職人の自分は、ある日そのことについてメールを送ったが、採用されることはなかった。

そしてとうとうビートたけしのANNは最終回を迎えた。下校中にぶつかった事故の転校生とは図書委員で一緒になったが、それはたまたま2人だけ挙手したわけではなく、転校生とその友達がやろうとしていたところに万年図書委員の自分が割って入った形になっただけである。要するに事故である。二度目の。しかも今回は計画的な。しかし、事故は二度起こればそれはもう運命である。むしろ、確率的に言えば運命以上である。ベクトルはどうであれ。

なので、ここから付き合うことになったのももはや事故なのだろうとメールを送った。

たけしの口上も、最後のタイアップ読みコーナーも、スタッフの苦笑いも終わり、番組終了1分前に読まれたことは、運命と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

RN:順応ボーイ

たけし「おいらの信条はなんだってさ、ハハッ最後だしあんちゃんに教えたげるよ、そりゃな…◎%●&△■¢£▼」

協賛会社のCMは果てしなく続く気がした。

リハビリ

よく治ると巷間言われる店へと足を運んだ。

その名も俺のリハビリ。フレンチ、イタリアンなどの俺のシリーズはとうとう医療にまで発展した。外装の胡散臭さは駐車場に並んだ白いスーパーカーが主張していた。店内には整骨院に置かれるべくして置かれたような簡易的なカウンターとベットが存在していた。よくあるミント色のスリッパに履き替え、嫌でも呼吸するために独特の湿布臭を嗅ぎ続けていた。店長の斎藤という男は常連の施術を終えるとたちまち自分をベットに招いた。その際、インビテーションカードを渡してきたので、困惑していたら段取りだからと言われ仕方なしに受け取った。女を口説くべくして生まれたような簡易的な名前と電話番号が記されたカードをポケットに入れて横になった。

容態は比較的良好になりつつあるという診察結果に安心したところでニュース速報が携帯電話から届いた。

EXILEAKIRA、ドラマ主演5年ぶりー

人は別れが惜しいものである。終わりが近づくと……

ちょっとその先が思いつかないや。

桜が散った後に思うことはなんだ。綺麗だった?儚い?いや違う。早く咲いてほしい、だ。

要はそういうことだ。要はそういうことはメタファー慣れしていないとこういうことになる。リハビリに失敗は付き物だ。犬がくくりつけられるべくして建てられたような店外の柱にくくりつけた犬が飼い主を待ちくたびれたような座り方をしている。それはまるでAKIRAファンのように。

力なく銀行を後にしたマントヒヒはどうやらカジノ公営に賛成のようだが、対する政府は動物園を廃止するようだ。つまるところ、つまっていてもうギッチギチである。複雑に絡み合い、歯がゆさは毛穴から皮膚にまで浸透して、例えるならマントヒヒがカジノで大当たりしたところで交換できる紙幣はシンガポールドルのみということだ。分かりやすさと同義語とは思えない簡潔明瞭さにゲイリーオールドマンとフィル・ミケルソンは舌を巻くだろう。比喩ではなく。

視界が狭いのは、可視化できない背景が寄ってたかってあるからで、無論、俺のリハビリは昔ガンバ大阪で活躍していたマグノアウベスが如くゴールを量産している。薄く切ったかぶを左右から噛んだ時に福井県は誕生した。メガネはここから大量生産されると思うと、昔浦和レッズで活躍していたワシントンも得点王争いで負けてられない。

ところでどうやら、リハビリというのは良化へのリターンの代わりに悪化へのリスクを孕んでいるようで、こういう文章の時、後者が該当するのは言わずもがなと、どこかからの声が聞こえるが、それは聞こえるだけで響いてはいない。